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しんぼー/Shinboh

Author:しんぼー/Shinboh
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ルポ集『東南アジアの人々』
"People in Southeast Asia"

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フォトジャーナリストの戯言
取材に基づく記事やビデオリポートではなく、日々の戯言
出張に際して
  期間を提示して予定を入れずに待っていたのですが、先方からの日時指定が2日前だったため、急な出張となりました。自主取材ではなく、勤務先の仕事です。Eメールや電話では済まない留守中の手当てをバタバタとし、直前購入のエアーチケットは少々高くつきましたが、恙無く現地入りしています。目的の会議は今後の展開に大いに関わり重要なのですが、それ以外に今回現地で片付けられる仕事がないのと、日本で別件の予定が迫っているので、1泊1機中泊のトンボ返り。
hotel_phnompenh   こんな日々に思うのですが、ここ数年“需要を喚起する”仕事の割合が増えていると。以前は既存の需要に対して、より上質でより経済的な労働や成果物を提供することにずっと努力して来て、それで収入を得てきました。しかし、いつの間にか需要そのもの、換言すればスポンサー探しとでもいうのでしょうか、原資の確保に関与しています。以前もこれからも役に立ったり、魅力があったりする企画を挙げ、それを形にしていくことに尽力するのは当然だと思います。また、第三者が需要喚起しているのを取材することは吝かではありません。しかし、こうした仕事に自ら手を染めるのは、どうもシックリ来ないのです。事の起こりや変化に自分自身が関与していては、マッチポンプに他ならないと思うからです。他方、根回しや交渉ばかりに時間を取られ、取材や編集など本業から遠ざかってしまっています。考えが古いのかと自問自答してもいますが、待っていて起こる事を取材したり、掘り下げたりするだけでは、商業メディアとしては不十分だからこそ、今回も出張となったのだと推察しています。
  その理由は、鶏と卵のようにどちらが先とも言えませんが、まず営業・事業と取材・編集の部署が以前ははっきりと分かれていて、拮抗しながらも両立していました。しかし、近年はその境目がなくなり、利益が出るという方向で統合されたように感じます。その背景には、インターネットの発達があります。広汎な、或いは専門的、ニッチな情報はインターネットで得る人が増え、既存メディアはインターネット対策としても、物量にモノを言わせて一局集中がますます顕著になっています。また、間接直接に自分の日常にも影響して来ることであっても、関心を持たない、関心を持ちたくない人が多数の“とりあえず安定した世”だったりということかと。さらには、その中で現場の実務は若い人たちや、年齢を問わず現代的な価値観を持った人たちで足りているという現実もありそうです。
  定年まで8ヶ月。何か仕事を見つけて、年金が出始めるまでは収入を得なければならないわけですが、改めて自分の立ち位置を見据えようとすると、もはや居場所がないようにも思えます。良くできたもので、だからこそ定年なのかとも思っています。さて、会議に行って来ます。(しんぼー) 

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眼窩底骨折して考えたこと
 5日前の日曜に交通事故に遭って左を眼窩底骨折。まるで殴り合いの喧嘩をしたような顔で、「備え」と「繋がり」は被害の程度に大きく影響するかと改めて考えています。5日目の負傷した眼
 一旦停止せず歩道に乗り上げてきた車との衝突を避けようと、急ブレーキをかけたため自転車から体だけが前方へ飛び出してしまい、顔面を舗装ブロックに強打という自損事故でした。痺れを伴って痛む顔面とモノが二重に見えていた目は、急ぎ冷やし、経皮消炎鎮痛剤を塗って、骨折痛や術後にも用いる鎮痛剤を飲むと、痛みは和らぎ、正常に見え出したので、休日急患診療所へは行かず、その夜は眠ることも出来ました。そして、翌月曜には眼科と脳神経外科、形成外科をハシゴし、CTスキャンを含め様々な検査の結果、命や視力に支障ないことが判り、投薬も手術もせず自然治癒に任せるという診断が下りました。今回の小生の場合、「備え」では、ジムで鍛えていたお陰か両腕で衝撃を弱められたこと、応急手当の知識と薬が手元にあったこと。「繋がり」では、社保に入っていて医療費をあまり気にする必要がなく、近所に専門医が揃っていたこと。
 災害を含め一般的にも備えと繋がりがあれば、被害は小さく抑えられ、回復も早まると思います。しかし、経済的に困窮していると、予防や防災、そして対策を学んで講じようという気になる環境になかったり、解っていても行動に移せなかったりします。また、有形無形に関わらず価値のあるモノを持っていたり、生産したりする人ならば、公私ともに自然と他人との付き合いが生まれ、傷病や被害を負った時には周囲の人たちが手を差し延べます。しかし、そうでない人たちは平素から孤立しがちで、公的な保護・援助すら後回しになったり、受け取らなかったりと悪循環に陥る場合もあります。
 原因が「備え」や「繋がり」にあるとするならば、対策もとれる筈です。しかし、誰しも生まれいずる国や地域、家族を選べないにも関わらず、生育環境や教育は経済状態が大きく影響し、遺伝する生物学的な形質もあります。また一方で、時間は不可逆的で、且つ、待ってくれず、人は歳をとって行きます。いつの間にか自分が当事者として社会問題の渦中にいることや、社会の弱者になっていることが、事故や災害を機に露わになりがちです。個人の努力や注意ではどうしようもない部分があり、自己責任と線引きすることは極めて難しいと思うのです。古今東西カネの切れ目が縁の切れ目ではない家族や友人知人を大切にすることを美徳とし、どの宗教でも無病息災や家内安全を祈るのが、今回しみじみと解ったような気がしています。(しんぼー)


テーマ:思うこと - ジャンル:学問・文化・芸術

デジタルの功罪 ~限られる仕事の行方~
 いやはや1週間ほどの間に、デスクトップとノートそれぞれのパソコン、それにビデオカメラが故障しました。今夏は異常に暑く、パソコンには常に扇風機で風を送り、カメラにかかる汗はその都度拭っていましたが、小生の仕事部屋も連日35度。デジタル機器とはいえ、過去数年は問題なく使えていた3台がほぼ同時に壊れ、酷暑が原因とは特定できませんが、自然に畏敬の念を感じそうになったり、運勢のようなものまで疑いたくなる災難です。trouble_pc 
  小生が社会人になった頃は、紙と鉛筆、フィルムカメラで仕事をしていました。辞書を引いたり、過去の記事を見たり、現像したり、伝送したり、編集したり、複製を作ったり、道具は使っても全てアナログ式で勘がモノを言う手作業でした。しかし、気がつけば、いまその全てをパソコンに取って代わられています。確かにコツを覚えたりする時間は要らず、いきなり能率が良くなり、そのコンピュータやデジタルカメラも個人で持てるくらい安価になりましたが、こうしてひとたび壊れると、過去のモノは見られなくなり、先に進むこともできず、完全に仕事がストップしてしまいます。道具を使うのではなく、正に道具に使われています。それでも、自他共に環境がすっかり変わってしまっているので、手に覚えがあるからとて、アナログに戻ることは不可能です。
 メーカーの修理担当に電話すると自動応答。選択肢を選んで行くと、その修理の見積もり額を合成音声で答えるといった具合で時代を感じずにはおれません。部品を丸ごと替える修理なので簡単に見積もり額が出るのですが、その金額の7割方は技術料という人件費です。かといって、あくまでも部品を替える作業であって、部品を直すことはありません。大量生産される部品が、人件費より格段に安くなっているからですが、この流れで行くと、いよいよコンピューターとロボットに仕事を取られてしまいそうな危機感を覚えます。繰り返しの多い単純作業だけではありません。状況判断が必要でも、その状況がデータ化されていればコンピュータが冷静な判断を下せる仕事。一見クリエイティブに見えても、一定の法則で位置や順序を入れ替えているだけの仕事。こんな仕事は既に大分なくなって来ています。
 今回、デジタル機器が立て続けに故障し、改めて考えさせられています。コンピュータとロボット、ソフトウェアの開発者以外の求人といえば、飲食業だけではなく、どんな畑であろうが、接客業の要素が多分に入っている職になっています。今の若い人たちはフェーストゥフェースの仕事を敬遠する傾向があるとは聞いていますが、これからもこの傾向はどんどん強まることだろうと。サービスはもちろん品物でも、やはりコンピュータやロボットにできない、できたとしても、クライアントが付随的に感情を伴った人間関係を求める仕事しか残らないのではないか。利益を上げるための能率向上や省力化が極まり、限られた仕事しかない時代になっても、その利益を分配して食えれば良いのでしょうか。(しんぼー)
  

障害者施設の事件に思う
 障害者施設の元職員が入所者ら44人を殺傷するという戦後最悪の事件が起こりました。現場が勤務先の取材エリアでないのと、小生は事件事故を扱う部署にいないので、全く一読者、一視聴者として事件を知りました。しかし、身体・知的・精神障害者やその施設はニュースでもドキュメンタリーでも何度も取材したことがあります。ニュースでは環境の改善を訴え、ドキュメンタリーではノーマライゼーションを推すためでした。killed19hc.jpg
 この国での偏見や差別は少なくなったようで、所得や学力の二極化に伴って、再び増加しているような気配です。在日外国人に向けたヘイトスピーチと一部同根の動機を感じます。カネやモノ、所属、名誉などに生き甲斐や幸せを求める人たちが、それを得られない、或いは、いつか得られるという希望が持てない状況に置かれると、鬱憤晴らしの対象として差別する対象としてスケープゴートを作りたがるという傾向があります。個人でなく組織や国となると、内在する問題が閉塞的状況を打開できず、解決への道が見えない場合、いつの時代も、どこでも外敵を作って内部の気を逸らすという手段を用いてきたように、この傾向を変えるのは非常に難しいと思います。
 なので、考えるのですが、障害者をはじめ弱者に対する福祉サービスは、警察や消防救急と同様に民営化できないモノだと。昔は行政がやっていたことを、どんどん外郭団体や民間企業に委託して来ましたが、この流れがいけないと思うのです。いくら年金や助成金などの公的資金が注入されていても、それだけでは回らず、ビジネスとして経営していかねばなりません。ひとたびビジネスとなれば営利を追求します。警察や消防救急が利益率が悪いから、赤字になるからと仕事をしないのは考えられません。命や自由、人権は売買できないわけですから、福祉サービスはそもそも営利企業に委託できる種類の業務ではないと思うのです。
 需給関係の中で健全な自由競争が働けば、一般的には質が良くなり、低価格になります。中央・地方政府はそこに目を付けての民営化なのでしょう。しかし、障害者をはじめ高齢者やひとり親家庭など支援を必要とする人たちは数多存在しているのですが、当事者やその家族に資力がない場合が多いので、大きな需要は潜在していても経済原理には乗らないのです。
 喰うに困らない社会になると、所謂3K職場には人が来ず、途上国との経済格差を利用して外国人を雇うというのも、この国より先を行っている欧州の国々で明らかです。民間委託して、そこの労働条件が魅力的なモノでなければ、一部の使命感を持った人を除いて、より良い条件の仕事にあぶれた人たちしか来なくなります。人の命を預かり、人権を守るといった大変な仕事が高収入にならないような価値観の社会ならば、NGOやNPO頼りでは限界があり、やはりそれは税金を使って行政が直接やるべきだと思うのです。(しんぼー)
出張は疲れる?
 周囲の人からよく、出張中や出張後に「疲れない?」、「疲れたでしょう?」と労われることが多くなりました。年齢のせいなのでしょうか。しかし、本人は出張中の方が平素より楽なので、いつも答えに窮し、テキトーな言葉を返しています。mybaggage
 これは年齢と関係なく、実は以前からそう思っているのです。まず出張中は一つのことに集中でき、煩雑な思いはせずに済みます。確かに、携帯電話やメールの発達で、受けている場所によってはトンチンカンな連絡が容赦なく入って来る時代にはなりましたが、持参しているノーパソと電話で対処できないことには諦めがつきます。次に、原則三食とも上げ膳据え膳で買い物や調理・洗い物の手間はなく、外食も毎回同じ店ではないので飽きることもありません。荷物や経費を減らすために毎夜手で洗濯するのが出張中の日課にはなっていますが、部屋の掃除やタオルの替え、トイレペや石けんの補充などもホテル側がやってくれます。
 確かに某国へ行った時は、宗教上の理由と気候風土に対してインフラの未整備から、食事は完全なベジタリアンでメニューには選択の余地がほとんどなく、息抜きするにもアルコールは御法度。屋外は埃っぽいのに、シャワーはバケツ一杯の水で済ませなければならなかったり、トイレは道ばただったりと。さすがに、あの出張は疲れなかったと言えば嘘になりますが、「疲れたでしょう?」はそんな極地でなくても、よく言われるのです。
 ホームグラウンドにいると、出張中にはできない、或いは、する必要がない家事のほか、仕事以外の人付き合いや趣味や娯楽があります。それに何と言っても、複数の仕事を上手くバッティングさせないようこなして行くのに疲れます。まぁ今月で定年までキッカリ残り1年となりました。こんなことをほざいているのも、あと少しの間です。(しんぼー)