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しんぼー/Shinboh

Author:しんぼー/Shinboh
フォトジャーナリスト
Photojournalist
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ルポ集『東南アジアの人々』
"People in Southeast Asia"

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フォトジャーナリストの戯言
取材に基づく記事やビデオリポートではなく、日々の戯言
のらりくらりで、もう10月
 もう10月。2008年も4分の3が過ぎましたが、小生は今年もまだ何もしていないという感じがします。焦燥感というのだけではピッタリ来ませんし、脱力や喪失感でもなく、なかなか自分でも上手く言い表せません。自主制作モノでも、勤務先の仕事でも、作り続けてはいるのですが、その内容や手法で本当に自分がしたいこととは違うような気が、ずっとしているのです。
 もう自分探しなどしている歳でないことは分かっているつもりですが、自分がしたいことや、言いたいことがハッキリしていれば、こんな悩みはないはずです。なぜハッキリせず、自分でも捕らえ所がないのかと考えると、詰まるところ、独自のメッセージなどなく、社会の反映、それも月並みな反映だからという辺りに行き着きます。それでも所詮こういうことは自己満足の世界ですから、思いっきり自己中心的になれれば、充足感や達成感が得られるかも知れません。
 ところが、そうなれない小生は「何も自分がしなくても、他の人が殆ど同じことか、煎じてしまえば全く同じことを、もっと強烈に表現・発信しているではないか」と思ってしまうのです。自己存立の根幹に関わる重大なことなのですが、際立ったモノは持ち合わせてないと自分でも思うだけに、のらりくらりしているのが、少なくともここ数年の小生です。(しんぼー)
 
 
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淋しさを受認しない人たち
 唐突かも知れませんが、きょうは「どんな自分でありたいか」と考えていました。他者を理解しようとしたり、時に共感したりするけれど、同一視はしない人でありたい。孤独感を紛らわせるために、或いは、自分の存在を支えたいがために、価値観を共有しようとしたり、共有しているなどという幻想を抱かないようにしようと思います。なぜなら、そうするためには自分の価値観を押しつけたり、曲げたりすることになり、相手にとっても前者は差し出がましい、後者は騙して裏切る存在になります。
 しかし、こんな考えでいても、それは他者との関係の中でしか実践できず、なかなか思うように生きられないのが現実です。周囲のスタンスが違い、噛み合わないという感じでしょうか。理解が深まれば深まるほど、違いが見えてきて、けっこう淋しい思いをするものですが、見えてきた違いに目を瞑るか、力ずくで同化しようとして、頑として淋しさを受認しない人が多いように感じます。人が集い、群れるのは、安全や基本的欲求を満たすためというところまでは万人が同意するかも知れませんが、その先の利潤や名誉の追求となると、人それぞれです。
 だから、「良い天気ですね」とか、「これ美味しいよね」くらいにしておこうと小生は思っています。仲間でいたいからと迎合するのとは正反対のことですが、無数にある本や音楽、映画などの中から同じものを複数の人間が面白いと思うのは、かなり希有なこと。そんな出会いがあれば、小生にとっては至上の喜びです。(しんぼー)
 
 

テーマ:物書きのひとりごと - ジャンル:小説・文学

酒場での醜態
 午前零時、静かにジャズが流れる、照明を落としたバーのカウンター。40過ぎ背広姿の男が勘定を済ませると、自分が食べ残したツマミを初対面の女性客に差し出しました。それだけでも十分ヘンだったのですが、トイレに行き、そのまま帰ると思ったら、男は再びその女性の横に座ったのです。店内にいる客全員に聞こえる大声で「一緒に飲みたい!」と。耳目を覆いたいほどの醜態なのですが、当の本人には自覚がありません。
 女性相手に酒が飲みたいのならば、なぜ自分が懇意の女性を連れて来ないのか、でなければ、スナックやクラブへ行かないのでしょうか。酔うと気が大きくなって、自制心が薄れるのはよくあることですが、日頃抑えている場違いなことをしたいという欲望が行動に出るようです。
 「場違いなこと」は、子供にとっては授業中に騒いだり、学校で煙草を吸ったり、服装や持ち物で校則違反したり、或いは、異性不純交遊や不登校なども、その範疇に入るかと思います。大人になっても、ある言動が当然許される場でその言動をすることはつまらなく感じ、ショットバーで酔っぱらって女性客にからむといったことをしなければ面白くないという感覚もあり得るということは理解できます。日頃はそんなことはしない、できない人の場合は、落差の美学の一種と辛うじて言えなくもありません。
 しかし、制約がいろいろとある中で、スマートに口説く方が面白くはないでしょうか。少なくとも、周囲の客にも迷惑がられないのは間違いありません。(しんぼー)
報酬を考える
 より高い報酬を貰える仕事って、どんな仕事だろうと、ぼんやり考えていました。一定の時間内により多くの、より質の高い商品を作ったり、サービスをするというのが妥当なところでしょうか。だけと、需要がないことを幾ら一生懸命やっても、それに対してお金を払ってくれる人がいないわけですから、報酬はないどころか、逆に手出しになったりします。だから、需要が大前提。市場のことでなくても、雇用されている場合は、会社や上司が求めるものは需要があるということになります。しかし、いずれにせよ、供給とのバランス次第で、他がどんどん参入してくれば、報酬は下がります。
 需要があるのに、あまり多くの人がしない仕事は報酬が高いことが多いですが、3K仕事でありがちです。この3Kとは、身体が疲れたり、汚れたり、健康や命が危険にさらされることだけを指しているのではないと思います。報酬を貰っているからと面従腹背するのは、精神的にきついものです。方便であってもウソをつけば、汚いことをしていると自責の念に駆られます。敬愛していないのに忠誠を尽くしたりしていると、ストレスから病気になったりします。
 その手のストレスから縁遠い仕事としては、専門分野で高度なことをしたり、需要が潜在している新しいものを見つけ出したり、或いは、ゼロから価値を生み出す企画立案といったことがあります。しかし、それなりの準備や努力が要る反面、自己実現欲が満たされたり、対人関係の煩わしさが少ない分、タダでもしたいという人が沢山いたりし、期待するほど収益性は高くありません。
 結局、思うのですが、どんな時代や市況にあっても、仕事そのものの難しさよりも、やり甲斐や社会の評価の低さから皆がやりたくない仕事ほど、より多くの報酬を貰えるのではないか、という辺りに行き着いてしまいます。(しんぼー)
 
 
買うより、修理
 きょうは休みで、サイドボードの修理をしました。30年近く使っているので、まぁ仕方ありませんが、一番よく開閉する扉の蝶番が壊れて、食器の出し入れの度に不便この上ない状態だったのです。
 一瞬買い替えようかとも考えましたが、家具屋へ見に行ったり、納品日に在宅してなければならなかったり、収納しているものを移し替えたり、費用も手間も大変なことになるので、自分で修理することにしたのです。で、やってみると、近所の100円ショップで茶色の蝶番を買ってきて、後はアパートにあったドライバー一本で、15分ほどで完了。スムースに開閉し、よくよく観察しなければ、修理したとは判りません。ついでに雑巾がけして、ガラスを拭くと、まだまだ10年は使えそうです。
 住まいの営繕や家電の修理が昨今、頼むだけで出張料や基本料金といって数千円はします。その上に技術料が加算され、もう新品を買う方が安いといった値段に。ところが、肝心の資材や部品の価格は総額の1割以下だったりすることが多く、理不尽に感じてなりません。しかし、一方で、物価の安い外国で大量生産している製品を、消費者の手に渡ってから、日本国内で修理しようとすれば、新品を買うより高くなったりする構造も分からないことはありません。
 それでも、省資源や環境保全に繋がり、技術の伝承にもなることですから、修理のハウツーに関するサイトや本が、もっと多義に出回ることを切に願うこのごろです。(しんぼー)