プロフィール

しんぼー/Shinboh

Author:しんぼー/Shinboh
フォトジャーナリスト
Photojournalist
詳細は下記サイトへ
ルポ集『東南アジアの人々』
"People in Southeast Asia"

最近の記事

最近のコメント

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

このブログをリンクに追加する

フォトジャーナリストの戯言
取材に基づく記事やビデオリポートではなく、日々の戯言
想像を超えるほど希ではないハナシ
 東京出張の帰り、搭乗10分前に空港売店で平積みになっていた小説を買い、帰り着くまでに読了しました。恋愛の末、婚約した女性にガンが見つかり、家庭を持つどころか、入籍前に逝ってしまうという話でした。映画でも実話を元にした『余命1か月の…』といった作品が掛かっています。大ヒットした『タイタニック』もそうでしたが、たとえ互いに“美しき誤解”をしているのであっても、同舟異夢であっても、愛が頂点に達している男女が、天災や戦争、病などで死に別れするか、或いは、二人とも死んでしまうという古典的な筋です。
 しかし、現実は殆どのカップルがそんな事件事故には遭わずに、結婚し、子供を作ったりします。そして、遅かれ早かれ、程度の差こそあっても倦怠期が来て、相手に異性を感じなくなったり、仕事が上手く行かなくなったり、生活に疲れてきたりして、夫婦や家庭に軋轢が生じます。男女の愛が冷めても離婚しないカップルは、清濁併せ飲んで、民法上の夫婦を維持し、少なくとも外見は家庭の体を保っている場合が多々あります。
 人生のうちで至福の時に人生自体にピリオドを打てれば、次の瞬間には破綻し始めることが多いのですが、その「次の瞬間」がないわけですから、記憶や記録は至福のまま“経年変化”を起こさないどころか、美化されて行きます。なので、ほとんどの人は、そんな眩いような体験をすると「後生だから、時間よ、このまま止まって!」と思うのですが、歳月は無情にも過ぎて行き、実生活のシガラミに気持ちは萎え、心身共にじわじわと老化していきます。つまり、願望しながらも意図しては出来ないことを、それが想像を超えるほど希ではないので感情移入できるという点で、いつの世にもこうした話は売れるのだと思います。
 で、小説やドラマなら古典的なまでに当然の戦略で、何も言うことないのですが、困ったことに、ドキュメンタリーにもそんな甘美な着地が求められたりするのです。そもそもドキュメンタリーなのですから、ドロドロの出口が見えない現実を呈示し、考えさせる終わり方でも良いと思うのです。しかし、どうも多くの受け手は普段から直視したくないと思っている現実を見せつけられ、考えさせられる結末は受け容れ難いようです。なぜ?やはり、ドキュメンタリーと言えども、多くの人が娯楽性を期待しているからだと思うのです。(しんぼー) 
 
スポンサーサイト
遭難事故に思うこと
 北海道で登山客10人が亡くなりました。山や海のレジャーでの事故にいつも思うことがあります。日本人は「生きている」という実感を得たいがために、スリルを求め、わざわざ極限状況に心身を置くという平和で、快適で、便利な時代に生きているんだなということです。
 戦乱や天災で身の安全や健康が脅かされていたり、貧困からその日の飯に困っていたりする国や地域では、人々は日常的に死と隣り合わせで、否が応でも何とか一日一日を「生きている」と感じている筈です。体力にも金銭にもそんな余裕がないからとも言えますが、彼らは苦痛や危険が伴う登山などはしません。そうしたモチベーションが起こらないということです。
 平和で、快適で、便利なのは結構なことなのですが、個人の自由意思でレジャーに行っておいて捜索救援を求めては傍迷惑ですし、本人たちも死んでしまってはもはや「生きている」という喜びは感じられません。何不自由なく暮らせているヒトは本能的に生きているという実感を求めるようで、その点ではアマチュアのレジャーとプロの仕事の間にも差はないように思います。
 過酷な条件に晒され、身の危険がある職業に憧れ、敢えてその仕事に就き、それを生き甲斐と感じているプロもいます。しかし、仕事なら業務を遂行し、生きて帰らなくては元も子もないわけですから、事前の準備も現場での行動も慎重です。この意味で、今回の事故は同行していたプロのガイドたちが、なぜ「客を無事に下山させてナンボの仕事」と一番に考えなかったのかが分からないのです。(しんぼー)
開き直り or 自暴自棄
 人生がやり直しが利かないことや、もしもう一度やれるとしても、前回以上に頑張れる自信が持てないこと、或いは、生まれ出た場所や時は如何ともし難く、自分の一世代ではどうにもならないことを悟った時、殆どの人は開き直るか、自暴自棄になるのではないでしょうか。少なくとも小生は、そうです。
 子育てが終われば、社会に貢献できない小生のような人間は、苦痛を感じることなく、誰にも迷惑がかからないのならば、自殺したいという気持ちにしばしば陥ります。それが最も安楽であり、社会のお荷物にもならないからです。「死ぬことはない」とか、「生きる義務がある」などと、色々きれいごとを言われたとしても、本当のところは周囲にとっても良い筈です。
 8月に締め切りが来る企画を思い付かないまま、刻々と時間が過ぎていくことにストレスを感じています。一方で、鬱病は再発しがちというのが定説です。鬱状態くらいで自覚症状はあり、ストレスを発散できればクスリの世話にもならずにやり過ごすことが出来ることも体得しているのですが、今回は環境を変えることも出来ず、発散する方法も見当たりません。
 開き直っていないと、悔しさなどから自暴自棄になることがあります。開き直っても「まぁ、こんなものだ」と納得できれば、必ずしも自暴自棄にはなりません。けれども、「こんなものなら存在価値はない」と思えば、疎外感に苛まれ、結局は自暴自棄になるように思います。しかし、一つ言えることは、自分は取るに足らない、価値のない人間だという自覚を得ると、一つ前のブログに書いたような人たちにも優しくなれます。あくせくしようが、のほほんとしていようが、チョボチョボだからです。(しんぼー)
 
差別の芽
 社会福祉の世話になっていたり、家族や友人知人から支援を受けていたりする人の中には案外、浪費家が多いように見かけます。真夏、水のシャワーと扇風機で凌げるのに敢えて熱い風呂に入ってクーラーをガンガンかけたり、自転車だと自分の健康や地球環境のためにも良いのに排気量の小さなバイクを通り越して車に固執したり、自炊より割高で栄養やカロリーの管理も難しくなるのに買い食いや外食、出前を好んだり、雑巾で済むのにティッシュやペーパータオルを使ったり、見栄でブランド物を買ったり、…。
 ということで、一見彼らの暮らし振りは豊かで華やかに見えます。しかし、期日までに返せそうにない借金があったり、もしもの時用の貯金がなかったり、保険や年金が払えてないことなどを一度知ってしまうと、なぜそんなに浪費するのか、どうして倹約しないのかと率直に思ってしまいます。こういうネガティブな感情から彼らに対する差別の芽が出るのだと思うのです。
 しかし、だからこそ彼らは窮することになったとも言えます。収入に見合った暮らしを、計画を立てて出来ていたなら、そもそも窮していないはずなのです。そして、大人になったら自立していく術を家庭においても、学校においても学べなかった人たちだとも思うのです。或いは、見た目では判らない知的障害や精神障害を持っているのだけれど、それに本人や家族も気付いていないか、気付いていても公にすることを避けている人たちということもあります。
 よって、幼い頃に学ぶ機会や環境がなかったとか、病や障害を持っているとか、その結果、大人になっても情報収集や判断の能力がなく、本人一人の意思や努力では簡単に解決できない状況にあるのです。彼らもいてのこの社会なのですから、やはり差別意識を持つべきではなく、この社会で解決して行かねばならないことだと思うのです。不景気に否応なしに格差が大きくなる昨今、こんなことを考えています。(しんぼー)
国際支援の意義
 20年近く途上国でプロジェクトを仕切っていたNGO(非政府援助団体)の前スタッフが小生が暮らす街へ講演に来たので、久しぶりに夕食を共にしました。今は大学で若者たちに国際関係を教えているそうで、貰った名刺には准教授とありました。彼女がNGOを辞めたのは年老いた親の近くに居て、介護するためと聞いています。確かに、彼女が赴任していた国では内戦の混乱や難民問題は昔のこととなり、外資も入って中進国の体を装って来ましたが、東南アジアでの援助活動は全体的に縮小傾向にあり、既に事務所が閉鎖された国や地方も少なくないことを確認し合った次第です。
 しかし、まだ一党独裁であったり、軍事政権が専制政治を敷いていたり、陰謀や暴力が横行し民主主義や三権分立が機能していなかったりする国の方が多いのが現状です。そうした国では、反体制勢力や野党があからさまな迫害や弾圧を受けていたり、その上、言論の自由もなかったりという状況です。なので、権力側にお荷物か邪魔な存在と思われる人々は、一人当たりのGDPが1000ドルを超えたとしても、経済発展や社会福祉の恩恵は受けられず、基本的人権すら無視されがちです。
 市民同士としては人道的に看過できない状況だから援助するのですが、これを政府が援助すると内政干渉だと反発を買いますので、そこはやはり民間のNGOの仕事だと思うのです。政府や大企業にとっても、反体制勢力や野党などとのパイプも持っておくことは、情報源として、また、交渉のカードとして大切なことで、国や企業がNGOに予算を流して間接的に援助するケースは日本に限らず多々あります。
 戦乱や自然災害で大勢の被災者や難民が出ている国や地域への緊急人道援助が必要なのは議論するまでもありませんが、そうした活動はメディアに取り上げられ、NGOの存在意義を簡明にアピールでき、募金も集めやすいといったことは自明です。しかし、先に挙げたような陽の当たらない所に押し遣られている人たちに、保健衛生や教育、文化振興、職業訓練といった分野で支援することは、武力紛争の火種や災害で大きな被害が出す構造を作らないという、大きな予防効果があると思うのです。
 歴史を見れば、火事と喧嘩は大きいほど…などど、政府のマッチポンプやマスコミの扇動といった謀略などもありましたが、起こってからでは遅いと考え、不幸な出来事を回避し、平和を希求するならば、やはり一見落ち着いているけれど、問題を孕んでいるという国や地域へ地道な援助を末永く続けることが不可欠だと思うのです。(しんぼー)