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しんぼー/Shinboh

Author:しんぼー/Shinboh
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ルポ集『東南アジアの人々』
"People in Southeast Asia"

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フォトジャーナリストの戯言
取材に基づく記事やビデオリポートではなく、日々の戯言
努力しようにも、努力の仕方が…
 またまた勤務先の企画締切が近づいて来て、うんうん唸っております。炊事洗濯掃除をはじめ、衣替えや扇風機の掃除と収納、銀行郵便局まわりなどは滞りなく出来ています。それに、自主制作モノの編集も夜に1、2時間ずつですが進められ、仕上げ段階に入っています。また、既に通った企画の取材や撮影も順調です。けれども、ネタ探しだけは、遅遅として進まないというか、見つからないのです。
 これまでに自分なりに編み出した企画立案に有効なことはやっているのですが、どうも2、3年前からスランプです。インターネットでヒット率の高い文言を使って検索をかける。図書館で新聞の特に地方版の記事に注目する。本屋で雑誌や新刊書を鳥瞰する。県庁などで自治体広報誌に目を通す。映画や芝居を観る。飲み屋で聞き耳を立てる。きょろきょろしながら街を歩く。全部やってはいるのですが、やったからと必ずしも、何をするのが良いと閃いたり、面白い人物が見つかったりするものでもありません。かといって、他の手立ても思い付きません。
 どうしてネタ探しだけが、こうも悩ましいのか考えてみました。家事にしても、事務にしても、取材執筆や撮影、編集にしても、それらは既にしなければならないことや目標がハッキリしているから、時間を作って力で押していけば出来てしまいます。ところが、ネタ探しは、時間と力は必要ですが、それだけでは十分でないからです。しなければならないことや目標、それ自体を探しているからです。要は閃きさえすれば、あとは1、2日で情報を集め、打診して企画書にできるのです。ところが、その閃きが、うぅ~ん、閃かないのです。
 まぁ、閃きを必要としない仕事の報酬は、概してそれを必要とする仕事より低くなっています。やはり報酬は仕事の難易度にスライドしているようで、会社にしてみれば、払っている給料に見合った内容の仕事をせよということなのでしょう。しかし、一個の人間として持ち得る視野や視点に限界を感じ、努力しようにも努力の仕方が分からず、うんうん唸っている次第です。(しんぼー)
 
 
 
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テーマ:創造と表現 - ジャンル:学問・文化・芸術

全身打撲+消化不良
 勤務先のロケの下見と打ち合わせで、とある美術館へ行き、ヘロヘロになって帰ってきました。というのは、近現代美術史に名を残す巨匠の作品が、これでもかというくらい展示してあり、打ちのめされてしまったのです。全身打撲だけでなく、解釈に於いては消化不良も起こしています。
 なぜなのか考えると、先ずは、まともに美術鑑賞をしたのが久しぶりだったからでしょう。芸大生だった30数年前や、世界的に有名な美術館が幾つもあった留学先では、眉間に皺を寄せながらも、疲れを知らず貪欲に観て廻っていたものです。しかし、社会人になって以降は、商業美術ばかり目にしていて、こうした美術作品から遠ざかっていました。
 それ以前に、日頃から慣れ親しんでいる小説や映画は受け身でも楽しめますが、やはり美術はより抽象的である分、引き込まれた瞬間から能動的に働きかけることを強いて来るので疲れるのだと思います。さらに「打ちのめされた」のは、その深さや完成度の高さに加え、何十年、百年以上前に未だ陳腐にならないこれだけのことをやっていたという事実に触れ、箸にも棒にもかならない凡で稚拙なことをやっている自分を改めて思い知らされたからです。
 そんな比較をすること自体が畏れ多いというか、作品の冒涜に当たるのですが、知らず知らずのうちに「同じくらい、或いは、超えるようなものを創れる?」と自問していました。しかし、こういう見方は若い頃にはせず、あの頃はただただ感動し、あんな風に創れたら良いのになと脳天気に思っていたのです。遅ればせながらも、どれだけの偉業か、どれだけ自分はダメなのかが分かるようになっただけでも、まぁ成長したのだと自己弁護しています。(しんぼー)
読み書き算盤
 どんな業界でも仕事するというと、つまりはパソコンに向かうという時代になってしまいました。昔の「読み書き算盤」は、モニターの文字を読み、キーボードで書き、テンキーで計算することの方が多くなっています。小生の場合は、原稿や台本を書いたり、それを割り付けたり、また、写真の補整や整理、動画の編集と、殆ど全ての作業がパソコンになっています。
 唯一と昔と変わっていないのは、取材やロケ先だけ。ビデオ映像やスチル写真はパソコンでなく、カメラを使っているからです。それでも、デジタルカメラとなって、現像しなくても写りを現場で確認できるので、大変楽にはなっています。また、いくらノートパソコンのバッテリーの持ちが良くなって、軽量化されたといっても、取材現場では未だにメモ帳に手書きが主流だからです。
 まぁ、取材してすぐに出さねばならないデイリーの仕事をしていて、記者会見場みたいにノートパソコンを置く台があるならば、見聞きしたことを手書きではなく、直接キーボードで入力したりはします。ぶら下がり取材などで、さかんにICレコーダーが使われていますが、あれは昔ならばカセットテープレコーダー。微妙な言い回しや声色まで原稿に反映させたいといった狙いで、録音機器に関しては、カセットテープが開発されて以降使われてきました。
 しかし、アナログ時代が長かった小生ごときは、大震災などで何日も停電したり、発電機もないような僻地へ行ったりする時に、手書きやフィルムカメラで仕事できることが役に立たないだろうかと思っています。というのも、パソコンを自由に使えるようになるには、それなりに勉強させられましたが、アナログで仕事するのも、それなりに勘を養わねばならなかったので、あの経験の蓄積を無駄にするのが惜しいような気がするのです。(しんぼー)
 
内容より、表現や編集、演出が肝心?
 盗用や著作権侵害の訴訟や事件の報道は最近あまり耳目にしませんが、たぶん相変わらずか、インターネットが拍車を掛けて、もっと横行しているのではないかと想像しています。小生はこれまでに新聞11年余り、雑誌6年、テレビ12年とそれぞれの現場で働いて来ました。どこでも同業者の後追いは当たり前。テレビは新聞雑誌書籍を基に番組を作ることが多々あります。雑誌は新聞やテレビを見てあたかも現場へ行って来たような記事を書くことがしばしば。新聞もテレビや雑誌からヒントを得たり、外国の新聞を翻訳して記事にしていたりします。
 映画や演劇は書き下ろし台本でない限り、必ずと言ってよいほど原作が書かれています。小説なども翻訳ものならば、著者は原作者の名前です。しかし、新聞雑誌テレビが出典や引用元を明記しなかったり、言及しない場合は、どこまでが盗用なのかの判断は難しいところです。その基準は一応、媒体が違えば、言い回しを変えれば、違う言語でならば、盗用ではないとなっているようです。
 しかし、ニュースや話題、或いは、独特の切り口を先に取り上げても、発行部数や放送エリアが小さい場合は、その焼き直しでも、ひとたび大メディアが取り上げると脚光を浴びることになります。確かに、大メディアは表現や編集、演出にノウハウを持っていて、また、それを実現させるだけの資金力があります。こうした構図の中で、儲け度外視で地道に取り組んできたフリーランスのジャーナリストや作家、研究者らが、鳶に油揚げを掠われるような苦い思いをしているのを何度となく見てきました。小生もフリーランスの立場では、そういう目に遇ったことがあります。
 「苦い思い」と言ったのは、表現や編集、演出におけるウケを狙った外連味たっぷりの料理法は、対象と地道に真摯に向き合った人間には抵抗があって、なかなか出来ないことだからです。ありのまま真実を伝えようとすると、スパッと断定できなかったり、異なるベクトルを束ねられなかったりし、散漫になったり、弱くなったりするものです。その結果、一次情報を持っている人がそれを形にしても、ウケが悪く、マスメディアにそのまま露出することは殆どありません。ここで思うのですが、伝聞ではない一次情報であることより、表現や編集、演出の方が肝心なのでしょうか?(しんぼー)