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しんぼー/Shinboh

Author:しんぼー/Shinboh
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ルポ集『東南アジアの人々』
"People in Southeast Asia"

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フォトジャーナリストの戯言
取材に基づく記事やビデオリポートではなく、日々の戯言
ロリコンおやじに間違えられて
 最近のことですが、勤務先の仕事で幼稚園の運動会の取材に行っていて“ロリコンおやじ”と疑われてしまいました。ご丁寧にも、小生を変態カメラマンと誤認した人の個人ブログに写真入りで紹介され、ちょっと困ったことです。
 そう思われた原因は、①制作予算を抑えるため私物の安価なカメラで撮影していたこと、②ニュースではない企画モノの取材で、ある家族に長時間張り付いていたこと、③事前に幼稚園の許可は得ていたが、幼稚園の腕章を着けていなかったこと、④前提としてマニア向けDVDやブログ制作を趣味や仕事にしている人もいること、が考えられます。もう一つ前の仕事では、ある高等学校のクラスに1学期間密着する企画だったので、校長名で事前にプリントを配って生徒本人と保護者の承諾を取った上での取材となりました。
 ことほどさように小生がこの業界に入った30年前とは状況が大きく変わって来ました。当時は新聞社や放送局の取材ならば、個人宅や私企業を除けば、事前のアポさえ不要なところが殆どで、個人をフィーチャーした撮り方でさえ、レンズを向ける時点で本人が拒否しなければ問題なかったのです。ところが、このごろは判例でも撮影が認められている公道上や公園をはじめ、学校や駅などのパブリックスペースで群像の中の一人として写されただけでも、肖像権を主張する人が多くなっています。撮影する側も不要なトラブルを招いて、墓穴など掘りたくないので、悪意を持って撮ることはありません。よく耳にする写されたくない理由としては、男女関係やカネの貸し借りなどで揉めていて、たとえ画面の隅に一瞬映ったとしても、自分がいる場所や日時が特定されては困るといったことです。また、服装や化粧を含め、普段の姿=“地”は見せたくないと俳優のようなことを言う人にも出くわすこともあります。
 スキャンダルやゴシップは所謂有名人でなければ価値がないので、一般の人を狙うことはありません。また、訴えられて裁判で負けるような、つまり公序良俗や公共の福祉に反するような写真や映像は最初から撮りません。ならば、なぜこうした取材しにくい時代になったかと考えれば、やはり科学技術の発達で、誰もがカメラを持って簡単に写せるようになり、インターネットで写真や動画を匿名で広く早く発信できるようになったからでしょう。根拠もなく誹謗中傷する文章も含めて、アマチュアや趣味でやっている人たちは自分の信用や生活がかかっていないからか、取材・報道する際の責任を考えていない場合が少なくありません。ですが、同時にプロとアマの境界が曖昧になって来ているのも事実です。となると、やはりプロアマ関係なく発表・報道する場合は誰もが責任のよりどころがハッキリする署名入りでというのが望ましいと思うのです。(しんぼー)
 
 
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足を知る者は富む
 平和を願って、飢餓や戦争を避け、自然環境や文化を守るということが、換言すれば、命と人権を大切にすることがジャーナリズムの究極の目的だと小生は思っています。しかし、目の前で起こっていることではなく、直接的な影響がないとなると他人事で、日本国内では政局や経済振興、果ては娯楽的要素の強い芸能スポーツばかりが報じられています。商業メディアだから、そうした内容に需要があり、需要に合わせなければ事業や企業として立ち行かず、大事なことも報道できなくなるからと言ってしまえば、それまでです。
 しかし、社会や世界は皆が望む方向に変化を遂げてきているでしょうか。もしそうだと言うならば、その人が属す国や企業、階層、地域、家族などに於いてはという限定的な条件を付けなければなりません。自国政府の主権や国体を護ろうとすると、富国強兵しかないという論理があります。それでも、近代にどこかの国の植民地となり、今も平均寿命が60代以下、一人あたりのGDPが2000ドルに届かない、いわゆる途上国に行った時にいつも感じることがあります。市民にはそれなりに暮らしがあり、楽しみがあり、幸せがあるということです。子供だけでなく、大人にも笑顔があるのです。
 どことも隣国とは仲が悪く、強権政治だったりということはあります。しかし、日本のようにメディアも加担して、政府や大企業が市民を囲い込んで世論誘導し、過剰な生産や消費をさせることも少ないように見受けるのです。それは右上がり経済だとか、拡張主義には利するところがあるかも知れません。途上国では市民の側にもそんな貪欲な金銭欲や物欲はなく、投機や運用、債券の売買どころか、返済できないほどの借金などさせないし、していません。 
 外交官試験にパスし、複数のG8やG20と言われる国々へ長期出張経験があるカンボジア人の親友は、モノが溢れ便利な生活も目の当たりにしていますが、移民しようとは考えず、料理の上手な奥さんとプノンペン郊外で倹しく暮らしています。気候や宗教を背景にした国民性だけでなく、また、高等教育や外国生活の経験の有無とは関係なく、農民や労働者もどこか感覚的に人生を悟っているようにも見えます。その土地の地政学的な要素を含めた資力に見合った、つまり、身の丈に合った暮らしをしているように思えるのです。やはり「足るを知る者は富む」という格言を思い起こします。しかし、メディア自体が経済活動に深く組み込まれている日本では、たとえ命や人権を脅かす危険があっても、それが国家単位のこととなると、自分たちの存立に逆行するような論調はタブーのようです。(しんぼー)